
よく「食べ物の恨みは一生」と言います。
あのときあの人に取られた食べ物。あの人のせいで食べられなかったもの。楽しみにしていたのに奪われた最後の一個。
きっと誰もが、何十年経っても思い出してむかむかする「食べ物の恨み」を抱えているはずです。
けれど私は、「食べ物の恩も一生」だと思っています。
なかでも、半分この大きい方をくれた「半分この恩」は、よく覚えています。
何かを半分こしたとき、少し大きい方をくれた相手のことは、なかなか嫌いになれません。
特に少しもためらわずに「大きい方どうぞ」と差し出してくれる人のことは、一瞬で「いい人だ!」と思ってしまいます。
もちろん半分この大小にまったく執着しない人もいるので、それだけでその人の優しさを測れるわけではありません。けれど、こちらの心の中には小さな恩が生まれます。
それが相手の好物だった場合はなおさらです。
目の前に自分の大好きな食べ物がある。半分に分けたら、明らかに大きさに差が出てしまった。このとき一瞬も迷わず、大きい方を相手に渡せるでしょうか。
食い意地の張っている私は、あまり自信がありません。少なくとも一秒は躊躇すると思います。
だからこそ、“その一秒がない人”に驚いてしまうのです。
自分も食べたいはずなのに、当たり前のような顔でこちらに大きい方をくれる。
見返りを求めない優しさに、心を打たれてしまいます。
半分この恩は、時間が経っても威力を発揮します。
特にその力を感じるのは、何か頼まれ事をされたときです。
たとえ断りたくても、「あのとき半分こして、大きい方もらったしなー」と、つい引き受けてしまうのです(私が食べ物につられすぎなのでしょうか)。
大人になってからは、誰かと半分こをする機会はめっきり減りました。だから余計に、「半分この恩の力」が発揮されているような気もします。
と言っても、自分から「あのとき大きい方をあげたんだから」と言うのは反則だと思っています。
相手が汲んでくれてこその「半分この恩」なのです。
半分この恩は、ふとしたときに顔を出します。
かつて半分こにした食べ物を見かけたとき。誰かと食べ物を分け合うとき。そんな何でもない場面で、急に思い出すのです。
「あの人、あのとき大きい方をくれたな」と。
それは大げさな感謝ではありません。今さら本人に伝えるほどのことではないかもしれません。
けれど、「あの人に親切にしてもらった記憶」として、心のどこかに残り続けているのです。
そして不思議なことに、この恩は人から人へと伝染します。
自分が誰かと半分こをするとき、あの人のことを思い出す。そして隣にいるこの人に、「大きい方どうぞ」と言える。あの人にもらった「半分こ」の記憶が、違う誰かへの思いやりに変わる。
そうやって半分この恩は、受け継がれていくものなのかもしれません。