いにしえの美、いつかの記憶。

思い出話

おにぎりの話


あなたにとって「一番おいしいおにぎり」は、どんなおにぎりですか?

具材の豪華さや、お米の銘柄ではなく、もっと別の何か。おにぎりには目には見えない「隠し味」のようなものが宿っている気がしてなりません。

おにぎりの思い出を振り返りながら、私たちにとっての“おにぎり”を見つめ直してみましょう。


おにぎりの思い出


「おにぎりの思い出」というと、私は子どもの頃のお弁当を思い出します。

小学校の遠足や運動会。お弁当箱を開けると大抵おにぎりが入っていました。おにぎりをアルミホイルで包んで持ってきている友達もいて、「お弁当箱に入れるよりもかっこいいなあ」と憧れていました。

思えば私のおにぎりの思い出は、おにぎりを作る様子から始まっている気がします。何か行事ごとのある日の朝に、母が手際よくおにぎりを握る姿が昨日のことのように思い出せるのです。

手を濡らして塩を広げ、熱そうなお米をひょいひょいと握って三角形にする。それだけの光景がどうしてこんなにも懐かしいのか。母が握る様子を思い出しながら自分でおにぎりを握ることもありますが、どうも味が違う気がするのでした。

あまり良い思い出ではありませんが、友達と「おにぎり」と「おむすび」の呼び方で喧嘩もしました。私は今も昔も「おにぎり」と呼んでいるのですが、その友達は「『おむすび』に決まっとる」と突っかかってきたのでした。「決まっとる」の根拠はよく覚えていないのですが、なんでそんなに怒るんだろうと不思議に思いました。

「おにぎり」と「おむすび」の指すものに違いはなく、地域によって呼び方が変わるようです。『近代文化研究叢書3 おにぎりに関する研究』に大まかな地域差が記されているのですが、私の出身県ではやはり「おにぎり」が優勢のようでした。けれど「おむすび」の語感が持つ、そこはかとない温かさも素敵だなと思うのです。

余談ですが、この記事の執筆に際して友人とおにぎりについて話したところ「大人になるとおにぎりを握らなくなる」という話題になりました。「お店でおにぎりを買うことはあっても、自分で握ることは滅多にない」と言うのです。確かに私も、親元を離れてからおにぎりを握った回数は、片手で数えられるほどです。そして家を出るまでは、ほとんど母に握ってもらっていました。これから歳を重ねるほど、思い出の中のおにぎりは、そのおいしさを増していくことでしょう。



おにぎりを握る人


ときどき「人の握ったおにぎりを食べられるか論争」が起こるように、おにぎりは「誰が握ったか」が重視されます。これほど作り手を意識する食べものは、そう多くないように思います。私の場合は母が握ったおにぎりしか食べられません。父や兄弟が握ったおにぎりはなんとなく食べられないのです。

これには「手で直接握るものだから」という理由が考えられますが、なにより「その人のことを信頼できるかどうか」が大きいのではないかと思います。与える側と与えられる側の信頼関係と言いますか、人としての信頼ではなく、何かもっと子どもらしい、甘えにも近い信頼が働くように思うのです。そのせいか、大人になってから誰かに「おにぎり握って」とお願いするのはとても気恥ずかしく感じます。もし自分が誰かにそう言われたら「この人は甘えたがりの人なのかな」と思うでしょう。

「誰におにぎりを握ってもらいたいか」と聞かれると、やはり私は母、つまり自分を一番甘やかしてくれた人のことを思い浮かべます。母に限らず、父、祖父、祖母、兄弟、いとこ、親戚のおばさんおじさん、恋人、友達など、思い浮かべる相手は人それぞれです。「自分で握ったおにぎりが一番だ」という人もいるでしょう。誰を思い浮かべるにせよ、そこには「自分のお願いを受け入れてくれる人」というやさしい信頼があるのです。

おにぎりを握る人については、『千と千尋の神隠し』に思い出深いシーンがあります。ハクが握ったおにぎりを食べて、千尋の目から大粒の涙があふれる様子には、今でもつられて泣きそうになります。しかしもしも、あのおにぎりをハクではなくリンが握っていたら?カオナシが握っていたら?千尋はあそこまで泣いたでしょうか。信頼する人が“まじない”をかけて握ってくれたおにぎり。そこには舌ではなく心で味わう“本当の食べものの味”があったのでしょう。

そして私たちも「握る側」に回ったとき、ハクのような“まじない”が使えるようになるのかもしれません。



“私”のおにぎり


おにぎりは決して過去の食べものではありません。今やコンビニやスーパーはもちろん、ドラッグストアにもおにぎりが並んでいます。

具材の種類もずいぶん増えました。梅や鮭、昆布といった定番だけではなく、ツナマヨや明太子、飲食店とコラボした変わり種など、時代が進むとともに新しい味が生まれています。中には「天むす」のように、地域の名物品になったおにぎりまで。おにぎりは味や形を変えながらも「あって当たり前」の存在であり続けています。

けれど、どれだけ種類が増えても、おにぎりの本質は変わらないように思います。

それは「誰が握ったか」ということ。

忙しい仕事の合間に食べる「とりあえず」の食事には、機械で握ったコンビニのおにぎりがちょうどよく思えます。自分で握ったおにぎりが懐かしい日々を思い出させてくれることもあります。信頼する人が握ってくれたおにぎりが「食べること」の意味をもう一度教えてくれます。誰かにおにぎりを握ることで、その人のやさしい記憶の中に生きることもできます。

ただご飯を握った食べもの。
それでもおにぎりには、記憶と今、そして人と人とを結ぶ確かな力があるのです。



文/神山 史月 イラスト/さいとうあかり