江戸時代の庶民と聞くと、農民や町人といった一生懸命に働く人々が思い浮かぶのではないでしょうか。
今回の記事では農民の暮らしと食事に注目しています。
体力勝負の農業に携わっていた農民は、何を食べてどんな生活を送っていたのでしょうか。
江戸時代の農民とは
江戸時代の「農民」は、どこでどんな生活をしていた人達を指すのでしょうか。
(この記事では、農民と百姓を明確には区別していませんが、農民は身分や階層に関わらず農業を生業とする人々とし、百姓は農林漁業で村々を支える立場の人々として部分的に区別できます)
江戸時代の農民はどこに住んでいた?
江戸時代の農民や町人と言えば、城下町でいきいきと暮らすイメージを持つ人もいますが、実は農民は城下町から離れた農村に住んでいました。
農民だけ城下町から離れた地域に住んでいた理由は、当時の幕府の収入が影響していると考えられています。
江戸幕府の収入は農民が納める年貢米に依存していたため、農民を城下町から離れた場所に住まわせることで、農業に専念させようとしたのです。
当時の米の価値は高く、武士の身分を決める際にも、米の収穫高が利用されました。
百姓の身分も石高に基づいて土地を持つ者(高持百姓)と土地を持たない者(水呑百姓)に分けられていました。
このように高い価値を持つ米は、農村で米を作る農民がいるからこそ、年貢として納められます。
そのため、農村に人々を留まらせ、安定して米を収穫させる必要があったのです。
江戸時代の農民の暮らし
江戸時代の農民は前項のような理由から、幕府に様々な制限を設けられていました。
主に以下のような制限がありました。
・農地の処分/分割の制限
・移転の制限
・職業の制限
また、生活の中でも以下のような制限が設けられていました。
・酒造や煙草の栽培の制限
・木綿/着色した衣類の着用の制限
特に注目したい点は、「白米の制限」があったことです。
具体的には以下のように制限されていました。
1681年 | 雑穀の食事を徹底化する |
1687年 | 正月と五節句以外の米食を制限する |
1704年 | 米食を制限する |
1773年 | 祝い事・仏事以外の白米/粟飯を制限する(病人や老人は例外) |
米を作る農民が米食を制限されるとは、それだけ米の価値が高かったのですね。
江戸時代の農民の食事
江戸時代の農民は一日にどんな食事をしていたのでしょうか。
江戸時代後半の農民の一日の食事を紹介します。
一日の食事
江戸時代後半の農民は、一日に下記のような食事をしていた記録が残っています。
朝食:香煎(大麦を煎って粉にしたもの)と蕎麦粉を丸めて焼いた蕎麦餅
昼食:四分搗き(玄米から米ぬかを40%除去したもの)に稗と大根の身と葉を入れた「かて飯」
夕食:大根と粉団子を入れた汁物
「かて飯」とは、米に麦・芋・野菜・雑穀・海藻などを加えたものです。
農村ではかて飯や玄米を白米の代わりとして日常的に食べていました。
このように、農民の食事は決して豪華とは言えないものでしたが、同時期の都市部に住む町人や武士は白米を食べ、数品の副菜を付けることもありました。
こうした食生活の差は、質の良い食材が地方にまで流通していなかったことが原因と考えられています。
また、当然ながら年貢による貧富の差も影響していました。
農民の食事と苦労
江戸時代の農民の食生活を逼迫したものは、やはり「年貢米」です。
前述の通り、幕府は大事な収入源である年貢を納めさせるために、農民の米食を厳しく制限しました。
米食の制限は徐々に緩和されましたが、年貢の取り立ては依然としていたため、白米を日常的に食べる余裕はありませんでした。
「宇和島吉田両藩誌」(愛媛県宇和島市周辺を治めた宇和島藩と、その支藩である伊予吉田藩に関する郷土資料)には、以下の記述があります。
「食物は極めて質素なもので麦飯の時が半分、あとは時に応じて粥・雑炊・はったい粉を交える。副食は野菜に限られているようで、農家が生魚を食べるのは祭礼や特別の客が来た時に限られている。祭礼の時でも多くは手作りの野菜と豆腐・蒟蒻であって、魚類はわずかに数尾を用いるにすぎない」
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/13/view/2143
(はったい粉=麦などを煎って粉にしたもの)
江戸の城下町では、多種多様な食文化が花開いていましたが、地方の農村は対照的ですね。
まとめ
今回は江戸時代の農民の食事について紹介しました。
同じ時代でも、都市部に住む武士や町人と、農村地域に住む農民とでは、食生活や文化に大きく違いがあったのですね。
時代で一括りにせず、職業や居住地域などの細かい点に着目すると、意外な事実が見えてきます。